『清張さんの道を歩く会』会報【No.1】

≪第1回「松本清張さんをしのぶ会」開催≫
 

 清張さんが黒住町の住宅へ入居したときから70年。戦後70年の大きな節目の8月4日に地元の黒住町公民館別館で「第1回・足立山麓の松本清張さんを『しのぶ会』」を催すことができましたのは、みなさまのご支援、ご協力のおかげです。心より感謝申し上げます。

 まったく経験のない催しへの取り組みでしたが、黒住、菊ケ丘を主にした足立山麓の住民、北九州市・小倉北区役所、清張記念館の連携がスムーズに進み、短期間の準備ながら、手作り感に満ちた「しのぶ会」を行うことが出来ました。参加者は会場いっぱいの約70人。「清張文庫」開設に寄せられた本は440冊余りに上りました。「歩く会」はこれから毎年、この日に「しのぶ会」を開き「ふるさと清張忌」を定着させます。
 「清張文庫」は3年後に1000冊でオープンする目標を立てています。
 「しのぶ会」の様子はマスコミ各社がこぞって取材・報道しました。テレビ局は当日のお昼から夜までのニュース時間で取り上げ、新聞は夕刊から朝刊にかけて記事が掲載されました。記者、スタッフの皆さん、ありがとうございました。

☆ 「しのぶ会」進行と内容 ☆


 4日は午前9時20分開館し、清張記念館から提供していただいた清張さんが自宅で執筆している写真の前で皆さんに献花をしていただきました。猛暑が予想されましたので、出席者の同意を得て予定を10分繰り上げ、同9時50分から会を始めましました。

 冒頭の3人のあいさつ(要旨)は会報の最後にまとめて掲載しましたので、目をお通しください。さて、本番です。

★スライド『清張さんの小倉(黒住)時代』(菊ケ丘「語ろう会」編=21コマ)★
 昭和20年代の足立山麓や黒住の写真を投影し、当時の暮らしぶりを紹介しました。
▼当時の黒原営団の航空写真     ▼旧居の写真(平成19年撮影)▼近所の人が記憶で描いた旧居の間取り図▼自宅で執筆している清張さんの写真▼旧添田線を走るSLにひかれた旅客列車▼清張さんの妻「なを子」さんの送別会の写真など。

☆ トーク『清張さんご家族の思い出を語る』 ☆
(黒住の方たちの証言=3人)

◎「大坪 幸子さん」の思い出(幸子さんは昭和19年生まれ)◎
▼昭和26年から27年にかけて、7~8歳の頃の思い出です。
▼▼清張さん宅の、長女の「淑子さん」とは年が離れていたので、長男の「陽一さん」、同い年の次男「あきらさん」や、隣の同級生の飯野の「ヨーちゃん」たちと、よく遊んでいました。近所で女の子は「大坪幸子さん」一人だったので、遊ぶ相手はいつも男の子。
▼よく「石けり」をしました。この遊びは男女の別なく一緒に遊べます。「大坪幸子さん」は、いつも、みんなを負かしていたそうです。
▼▼「大坪幸子」さんの「お母様」は、「清張さん」宅とは右・筋向い同士ということもあり、「清張さん」の「奥様」とは親しく、お付き合いをしていました。
▼「大坪幸子さん」は、まだ小さかったので、「お母様」と「清張さん」の「奥様」が、どのような、話やお付き合いをしていたか何も知りませんし、「清張さん」と話した記憶もありませんが、「清張さん」の記憶が一つだけあります。
▼毎朝、「奥様」が濡れ縁のところで、出勤前の「清張さん」の髪を櫛で整えているのを、何度も見かけました。身の回りを構わない「清張さん」を見かねた「奥様」が、髪を整えてあげたのかもしれません。どちらにしても、微笑ましい風景ですね。・
▼▼母が「『瀬崎ふさ』さん」に話したことを、「『ふさ』さん」から聞きました。――「清張さん」が亡くなってしばらくして、三男の「隆晴」さんが昔の家(旧居)の前に来てたたずんでいたのを、私の母が見つけたので話しかけたところ、「もう来ることはないだろうから、見に来た」と言っていたそうです。東京に引っ越された後も、「ご家族」どなたも「黒住町」のことは<いい思い出>で残っていたのでしょう。どなたも黒住町が好きだったんですね。

◎「江副 伸久さん」の思い出(伸久さんは昭和21年生まれ◎

▼昭和26年から27年にかけて、5~6歳の幼稚園から小学校1年の頃の記憶です。
▼▼母親に連れられ、清張さん宅へ「もらい湯」に行きました。また、兄弟3人そろって<ぞろぞろ>と勝手口から入り、「もらい湯」をしたこともありました。板に注意しながら入った記憶がありますので<五右衛門風呂>だったと思います。
▼▼清張さんはいつも難しい顔をしてペンで何か書いておられました。挨拶はしても話せる雰囲気ではありませんでした。
▼2つの顔がありました。普通のお父さんの顔と小説を書くときの顔。瞬間的でしたが、鋭い目をしていました。他所のお父さんとは、ちょっと違っていました。
▼優しく社交性がある奥さんと比べ正反対の性格でした。
▼▼東京へ行って有名になった後も、何度も黒住町を一人で訪ねて来られました。偉ぶった態度は全然ありませんでした。
▼父母や姉兄から聞いたことから、私は清張さんの黒住町時代をつぎのように考えます。戦後の物資がない苦しい時代に、お互い思いやり、助け合ったので深い絆ができました。上京後も清張さんが黒住町によくおいでになったのは、苦しい時代に培われた絆を大切にしていたので、東京へ行っても黒住町が忘れられず、小倉に来られたときはいつも黒住町に寄ってみたいという気持ちになったからではないかと私は考えます。

◎「瀬崎 ふさ」さんの思い出(「ふさ)さんは昭和22年生まれ)◎
▼▼「瀬崎 ふさ」さんは体調維持のため出席を見送られ、メモ書きや資料を提出してもらい、「清水 せつ子」さんに読んでいただきました。ここでは資料の中から、「清張さん」「なを子さん」の文章の並んだ転出のあいさつ状(昭和29年6月1日の日付)を紹介しておきます。

 「しのぶ会」は清張さんに英語を教えた竹野幸一郎さんの長男、襄司(じょうじ)さん(神奈川県秦野市在住)から寄せられたメッセージで締めくくりましたが、「これまでと違う清張像、別の清張さんがいた」と、とても好評でした。終了後に希望者の方のみ30分ほど、小説・随筆に登場する黒住町周辺を散策しました。

 

小倉北区長・田島裕美氏のあいさつ(要旨)


 「足立山麓の松本清張さんをしのぶ会」の開催にあたり、ご尽力いただいた関係者の皆様に、心からお喜び申し上げます。足立山麓は、多くの史跡や郷土ゆかりの偉人・先人達が足繁く訪れたところであり、取り分け、松本清張さんはこの地に約半世紀住み、作品の中でこの地域を題材にしています。こうした中、このたび、新たに会を立ち上げ、毎年8月4日の清張さんを「しのぶ会」の開催や「清張文庫」開設を目指す活動等に取り組んでいかれるとのことであり、今後も清張さんの足跡を語りつぐ活動を継続していただきますようお願い申し上げます。最後に、皆様のご健勝と、この会の益々の発展を祈念して挨拶とさせていただきます。(代読 企画広報担当課長 中川恵介氏)

松本清張記念館・事務局長・福田正視氏のあいさつ(要旨)


 本日の「しのぶ会」に多数の方がお集まりになり、清張さんは、没後23年経ったいまでも、住んでおられた地域の方々に本当に愛されているということを、改めて実感しました。地元の方たちから「しのぶ会」を開催するとお聞きしたとき、皆様の熱い思いが伝わってきました。早速、ご遺族にお知らせしたところ、すぐに賛同を得られました。当記念館は、17年前の8月4日、清張7回忌に開館し、毎年8月4日を中心に、開館記念講演会を開催しています。また、松本清張記念館友の会では、清張ゆかりの地等を訪ねる文学散歩、講演会、朗読劇などを実施しています。ぜひ、これを機会に松本清張記念館にも足を運んでいただければと思います。最後に、皆様方のご健勝と「清張さんの道を歩く会」の発展を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます。


清張さんの道を歩く会・代表世話人・
小松康希のあいさつ(要旨)


 清張作品に引きずり込まれたのは20歳の頃でした。同時に清張さんには特に親近感を覚え、地元を離れて遠地で新しく作品を読むときは、必ず「自分が小さい頃に同じ町に住んでいた人」、「父と同じ朝日新聞社に勤めていた人」ということが頭をよぎり、「黒住町の風景」が目に泛かんでいました。作家のなかで一番多くの作品を読み、読書人生に大いに潤いを与えてくださったのも清張さんでした。ところが、たまたま出会った「菊ケ丘『語ろう会』」の方たちから「偉大な人にも拘らず、記念碑もなければ、文学忌もない。地元でも何もしていない。不思議ですね」と言われた時は、本当に痛いところを突かれた気持ちになり、特に「地元」の文言が気になりました。このことがきっかけで、「しのぶ会」を開催するようになり、運営母体として「清張さんの道を歩く会」(略称「歩く会」)を設立しました。
 これからは、「しのぶ会」の継続的な開催に努めるだけでなく、清張文庫の設立など「歩く会」の各事業目標の実現に向けて活動していきます。


第1回「しのぶ会」当日の献本数=444冊
 清張文庫の献本目標数は1,000冊です。著作・写真集・図録・評伝・論文・特集誌など、8月27日現在34人から計521冊寄せられています。あと500冊――。市民の皆様のご協力を切にお願い申し上げます。【完】

◆「清張さんの道を歩く会」事務局=〒802-0056 
  北九州市小倉北区黒住町13-16 小松康希方
  電話 093-922-8618  携帯 090-3416-9055 
  PCメール=520914komatsukohki@jcom.zaq.ne.jp 
(2015年8月31日 事務局)