『清張さんの道を歩く会』会報【No.7】特別掲載(1)

☆ 思い出を語る❶ 『足立中学校 校歌誕生の頃』  ☆
 

 村松 正さん(昭和13年生、昭和28年3月足立中学校卒業)は、第3回「しのぶ会」(平成29年開催)へ、<足立中学校 校歌誕生の頃の思い出>として、手記を「清張さんの歌が生まれたころ―母校懐想」と題し寄稿してくださいました。≪会報【No.7】特別掲載(1)≫として全文紹介します。

 足立中学校の新しい校歌は、松本清張さんのデビュー作「西郷札」が直木賞候補になった翌年の昭和 27年に作詞されました。当時、長女「淑子さん」が足立中学校に在学中だったのが縁で、小澤校長先生が清張さんに作詞をお願いし、校歌が誕生しました。

 手記は、新しく校歌が出来たと知らされたときの生徒たちの様子だけでなく、敗戦後の世相の一面も分かるきわめて貴重な証言です。内容は鮮明で、詳しく書かれており、現存する当時を知る人たちが少なくなっていく中、著者「村松 正」さんは、ここまで詳しく書ける人として、あるいは、最後の人かもしれません。

 

☆ 清張さんの歌が生まれたころ―母校懐想 ☆

 

昭和28年3月卒業生 村松 正

 私は絵地図「足立山とオリオン座 清張さんの歩いた道」を仕上げながら心地よい気分にひたっていました。まだ戦後の混乱が尾を引いていて、何もかも不自由でしたが、怖しかった空襲でボロボロになった心も癒され、思い出多いあのころが懐かしくて仕方なかったのです。


 足立中学校へ入学したのは昭和25年4月、まだ米軍の占領下でした。イガグリ頭の男子生徒は、みんなペン先の<しるし>のついた「男子学帽」を馬借町の指定の店へ買いに行ったものです。のちに知るのですが、校歌を作詞された作家「松本清張」さんの、長女「淑子」さんも、同じ年の入学です。
 1か月くらい過ぎると友達もでき、前の席のM君と仲良しになり、精米所の息子であるわたしは、おにぎりを2人分、片野の精肉店の息子だったM君は、お店で販売するハムの切れ端の部分や揚げ物をもって登校し、お昼にはお互い食べ合っていました。
 ただ、毎日だったわけではありません。私であれば父に「学校へ行くより、家の仕事を手伝え」と再三命じられ、長男の私は学校を休んで、モミすり作業や精米作業を手伝っていました。家業が盛んになったのはいいのですが、3年生のころは半分くらいしか登校できませんでした。男子、女子に関係なく私のような生徒はたくさんいました。

 一つ面白いお話をしましょう。時間割に「家庭・園芸実習」というのがありました。女子は家事裁縫、男子は花づくりです。花栽培に欠かせないものが肥料ですが、化学肥料や総合肥料はありませんでした。そこで男子生徒たちは学校前の広い道路、いまは「国道3号線」ですが、昔は道幅にちなんで「十三間道路」(1間は1.8mなので23.4mの道幅です)と呼んでいました。この道へ出かけ、荷馬車を引く馬の糞(ふん)、馬糞を拾い集めて畑へ入れていたのです。
 男子生徒たちは、砂津の朝日新聞社前から学校わきの神岳川に架かる「永添橋」までと、この橋から三萩野交差点までに分かれ、手バサミで馬糞を拾っては竹かごに放り込んでいました。うちにも集荷や配達用の馬車が1台あったせいか、私は手際が良かったので、しょっちゅう「馬糞班長」をしました。
 当時、広い「十三間道路」でも、自動車を飛ばすのは米軍だけ。市民は馬車、リヤカー、自転車、たまに車輪が前に1つ、後ろに2つ付いたオート三輪が走るくらいで、門司や戸畑、八幡へも多くの方が歩いて出かけていたものです。だから、清張さんもせっせと歩いていたのです。「英語道」「通勤道」「散歩道」がそれです。

 

➡➡【ご参考】「菊が丘『語ろう会』研究論文『清張さんの歩いた道としのぶ会』」でインター・ネット検索する と、「清張さんの歩いた3本の道=『英語道』『通勤道』『散歩道』」の説明があります。


 清張さんの長女「淑子」さんとクラスが同じになったことはありませんが、「清楚な人」「アタマのいい生徒」という印象を持っています。3年生になった時、私は「4組」、淑子さんは「8組」だったそうです。私の学級担任は「村上(結婚して星加)」という色の白い女の音楽の先生でした。

  しかし、男子生徒はちょうど「声変わり」をするころでしたので、かなりの生徒が音楽を苦手にしていました。そんなところへ突然、「足立中に新しい校歌が出来ました。卒業式で歌います」と説明があり、練習が始まったのです。男の子たちはさっぱり乗り気ではなく、「なんでいまごろ」「どうでもいいのに」と不満を漏らしていました。歌そのものへの反発ではなく、変声期に反抗期、思春期が重なった男子生徒たちならではの<わがまま>で<ささやか>な反乱でした。

 「松本清張さんという人が歌詞を作ったそうだ。その松本さんという人は、淑子さんの御父さんらしい」という<うわさ>が広がりました。「松本清張さんの名前は、ときどき新聞などに載るそうだ」「なんでも大きな賞をもらった小説を書く人らしいぞ」という<うわさ>も耳にしました。あのころ、新聞や週刊誌は大変な力があり、名前が載るだけで尊敬されていました。
こうして、大人びた声になっていく男子生徒たちも「ひんがしのみね あかね くもまに・・・」と意味を教えてもらいながら歌いだしました。校歌を覚えたらすぐ卒業となりました。

 淑子さんは高校に進学して間もなく、東京へ転居されたと女子同級生から聞きました。それから数年たったころのことです。総合的雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』で「東京女子大生  松本淑子」の名前を見つけて驚きました。「外国のユース・ホステルからの旅行記」、そんな題だったように記憶しています。その時、お父さんはもう作家としてかなり有名になられていたので「彼女もやっぱり文章を書く才能があるんだなぁ」と感心したものです。

 「清張」さんが<努力と絆>を大切にして過ごされた「黒住町」は「清張さんのふるさと」です。「清張」さんの愛した「足立山」を朝に夕に仰ぎ暮らす私たち。人それぞれに道は違っていても、ふるさとを愛し人生を歩いていこうではありませんか。【完】


☆ 事務局から追記 ☆


 

 

特別掲載(1)【2020年(令和2年)10月1日 小松康希】