「清張さんの道を歩く会」≪ 会報【No.8】改訂版

☆ 祝!! 開設 「きりがおか清張文庫」 ☆
 

 平成29年11月26日(月)、霧丘(きりがおか)中学校図書室の一角に清張作品200冊規模の「きりがおか清張文庫」が開設され、全校生徒630人と先生45人が出席した全体朝礼で開設式が行われました。


 篠崎校長先生ご挨拶の後、第1部で、同校文化図書委員会委員長および副委員長による呼びかけで、生徒たちが自主的に立ち上げた「きりがおか清張文庫」実行委員会の9人の生徒が、「清張さんに関する調べ学習」の発表をしました。スライドを利用した発表の内容は、清張さんの誕生からの小倉時代のこと、清張さんと地域のつながり、代表的な清張作品、実行委員会お勧めの作品(第1位「誤差」、第2位「或る『小倉日記』伝」、第3位「十万分の一の偶然」)、などを分かりやすく作成していました。また、清張さんが住んでいた地区(北九州市小倉北区黒住町=旧・小倉市黒原営団)の写真をスライド投影しながら、『反対側を見ると、なんと霧丘中学校の裏門、とても近くに住まわれていました』と、清張さんが霧丘中学校のすぐ近くに住んでいたという事実を、印象的な表現方法で説明していました。

 第2部で、開設式にご招待いただいた「清張さんの道を歩く会」が、紙芝居班「くろずみ一座」10名による「菊が丘『語ろう会』」(小倉北区下富野)制作の記録型紙芝居「足立山とオリオン座 清張さんの歩いた道」の記念上演を行いました。同紙芝居は、清張さんと家族が敗戦直後の8年間を北九州市小倉北区黒住町(旧・小倉市黒原営団住宅)で暮らした頃を中心に作成されています。
 紙芝居の台詞のなかで、清張さんが作詞した「足立中学校・校歌」の一部を紹介する場面がありますが、「くろずみ一座」には、清張さん作詞の校歌を歌って卒業した座員が2名在籍しており、いつも朗読でなく皆で歌っています。他所の学校の校歌を歌うことには遠慮があったのですが、紙芝居終了後、<お返し>にと言って全校生徒で「霧丘中学校・校歌」を披露してくださいました。全く予想していなかった粋な計らいに、座員皆、驚きと喜びをもって校歌を聞いていました。

 

 「調べ学習の発表」と「紙芝居上演」で、清張さんが住んでいた地域に我々も住んでいるのだと認識し、親しみを感じるようになった生徒も多いはずです。地元霧丘中学校の生徒たちが、黒住町を「清張さんの文学のふるさと」、「清張文学の原点」、「清張文学発祥の地」などと認識してくれることは、大いに喜ばしく心強い限りです。
 今回も、「きりがおか清張文庫」開設に関して、マスコミ各社=NHK、朝日、小倉タイムス、毎日(事前取材)=が報道してくださいました。感謝申し上げます。


☆ 「文庫開設に関する感想」と「感謝の言葉」 ☆
(1)「生徒の感想」


【2年・女子生徒】
 私は松本清張さんのことをほとんど知りませんでした。しかし、「きりがおか清張文庫」ができたことをきっかけに、清張さんの本を読み始めました。オープニング・セレモニーに向けての調べ学習や、「清張さんの歩いた道」を実際に歩いて行くうちに、とってもすごい作家さんだと知りました。これからも、松本清張さんの本をたくさん読んで、松本清張さんについて知りたいです。
【1年・女子生徒】
 松本清張さんについて調べていくと、面白そうな題名が書かれている本がいっぱいあってすごかったです。霧ケ丘や足原などの場所に家があったり、仕事に行く通り道があったり。これらがこんなに身近なところにあったことを初めて知りました。
【1年・男子生徒A】
 ぼくは松本清張さんの調べ学習をやってみていろんなことがわかりました。大変なこともあったけれど、パソコン室で清張さんについていろいろ調べることができて、いい体験をしたと思いました。こういった機会があったら、来年もぜひやってみたいと思いました。
【1年・男子生徒B】
 ぼくは松本清張さんについて調べた時、その人が数多くの本を書いたということを知り、ぜひ調べてみたいと興味を持ちました。そして、調べていくと、霧丘中学校のすぐ近くに住んでいたということを知り、とても驚きました。それに、「10万分の1の偶然」という作品を読むと、「やっぱりすごい作家さんだったんだなあ」と思いました。


(2)感謝のことば 「学校長 篠崎 政義様」


 11月27日のオープニング・セレモニーは、霧丘中学校にとって、また生徒一人一人にとって、地域が誇る偉大な財産との出会いの場となりました。これまで一人の作家について、このように生徒たちが自主的に調べて歩き、書物を紐解いてまとめるような経験はなかったと思います。ご披露いただいた「清張さんの歩いた道」の紙芝居は、生徒たちにとって、「松本清張」という文豪をどれほど身近に感じられるきっかけとなったことでしょうか。足立中と霧丘中の校歌の交換も、ふるさとの歴史が感じられ、とても心温まる場面となりました。

 開校以来、文武に名を馳せた霧丘中。近年でも作文やスポーツの全国表彰などが続き、若い才能にあふれる学校です。「きりがおか清張文庫」の開設は、作家とこの街に暮らす中学生を特別な関係で結ぶだけでなく、彼らの「未来」や「可能性」に、新たな風を送る後押しとなるにちがいありません。
 200冊に及ぶ貴重な清張作品の献本と、「きりがおか清張文庫」の実現へ向け、各方面への働きかけ等お力添えをいただいた「清張さんの道を歩く会」の皆様には、心より感謝申し上げます。大切な「地域の宝」をお預かりした以上、この財産を「霧丘中の宝」として、その価値をここに学ぶ中学生たちに伝えるべく、努力することをお約束します。
 貴会の、益々のご発展とご活躍をお祈り申し上げます。


☆  「きりがおか清張文庫」開設式を終えて ☆


 「清張さんに関する調べ学習の発表」を聞き、「文庫開設の感想」を読んで、充実した内容に感心するとともに、地元・霧丘中学校の生徒に対する≪清張さんを次世代に継ぐ試み≫は成功したと考えています。素晴らしいオープニング・セレモニーに当会をご招待いただき、また、清張さんの作品普及活動のための「紙芝居上演」の機会も与えていただき誠に有難うございました。

 「清張さんの道を歩く会」事務局から霧丘中学校について補足紹介します。
❶「霧丘中学校」は、昭和35年、「足立中学校」から分離して創設されました。そのため、生徒は「霧丘中学校」が創設されるまでは「足立中学校」に通っていました。清張さんの長女、淑子さんも通っていました。
➡【ご参考】その頃(昭和25~28年)、デビュー作の「西郷札」で直木賞候補になったのがきっかけで、清張さんが「足立中学校・校歌」を作詞しました。

❷清張旧居のすぐ東側を南北に走っていた旧・国鉄添田線の東側に位置しており、鉄橋下跡から約10mの通用門までは、旧居から徒歩で約1分の距離に位置しています。構内は、学校創設前は一面の田圃でした。現在の運動場横を通る道は当時の農道で、この道も清張さんが天気のよい日には通勤に歩いていたと想像される道です。その道沿いに住み通勤時間帯に清張さんを見かけたという昭和7年生まれの女性がいましたが、3年前に82歳で亡くなりました。
❸図書の貸し出しは、在校生と先生に限られていますが、1日60人の生徒が図書室を利用するので清張作品に触れる機会は高いと考えられます。「きりがおか清張文庫」は、清張作品を若い世代へ知らせるには良い機会と考えます。

❹読書の活発な学校で、読書量日本一を目指して取り組んでいます。作文コンクールでは、いつも成績優秀な生徒が出ており、特に、27~8年度の2年間で、全国規模のコンクールで3人も全国表彰【全国1位】を受賞し、さらに29年度は、北九州市主催の弁論大会でも最優秀賞【第1位】を受賞したように、高い文化の土壌があります。一人でも多くの生徒が清張作品を読み、さらに、愛読者が拡がることを期待します。そして願わくは、清張文庫の本を読んだ生徒の中から「第二、第三の清張さん」が生まれたらどんなに素晴らしいことでしょう。【完】

<会報【No.8】改訂版>は、<会報【No.8】2017年(平成29年)12月10日発行>を一部加筆修正しました。発行にあたり「学校長 金子陽一郎様」から寄せられたメッセージを紹介いたします。

 

 「きりがおか清張文庫」設置4年目を迎えて 

 

北九州市立霧丘中学校 校長 金子陽一郎

 

 平成29年11月、本校に「きりがおか清張文庫」を設置していただいてから、この11月で3年が経過するとうかがいました。私が霧丘中学校の校長として着任したのは平成31(令和元)年4月ですから、設置されてからすでに1年半近くが経過していたことになります。今回の寄稿依頼を受け、設置当時からのことを知るべく、平成30年から勤務している学校図書館職員に話を聞きました。
 現在の「きりがおか清張文庫」は、当初設置されていた学習ルーム横付近から、より多くの生徒の目に触れさせることをねらって、図書室のメインストリートに移転させてあります。普段の貸し出し数はそう多いとは言えないようですが、現在も繰り返し原作がテレビドラマ化されたり、映画化された過去の清張作品がテレビ放送されたりすると、その映像作品の原作本を探して来室する生徒が一気に増えるそうです。昭和から平成、そして令和へと時代が移っても、それぞれの時代の心をつかむ「普遍的な魅力」をもった、清張作品の奥深さを改めて感じます。
 霧丘中学校ではこれからも、北九州市を愛し、地元出身の作家の作品を愛することのできる生徒を育んでいきたいと思います。引き続き、どうかご支援ください。


改訂版【2020年(令和2年)12月1日 小松 康希】