8月4日、9時30分開場。会に先立ち、松本清張記念館ご提供の「清張 芥川賞受賞の頃黒原の自宅で」の写真の前で皆さんが献花後、「歩く会」世話人の「江副 伸久」の司会で「しのぶ会」が始まりました。参加人数は75名。主催側1名、来賓の方2名の挨拶の要旨を紹介します。
「まちづくり協議会」は校区をより良くしていこうとする団体です。今年から共同開催した理由は二つ。一つは、松本清張さんが足原校区にいらっしゃったということです。今、いろんな町が自分たちの町を良くしようと活動しています。
▼ただ、できないのは過去の事実を今から作れないということです。松本清張先生がいた事実は、どこの町が真似ようとしても出来ないことです。この大事なことを、きちんと大切にしていこうというのが一つ。
▼もう一つは、事業をする時の町の取り組み姿勢には、<何もしない町><役員やリーダーから発信されたことは行動する町><住民発信で行動する町>と3段階あります。
▼松本清張先生の顕彰活動は、黒住の皆さん中心の活動、住民発信で行動する一番良い姿です。具体的には、「黒住公園」に「清張」先生の名前をつけた「くろずみ清張公園」に名称変更してもらうため、賛同署名を集め北九州市に要望しました。また、校区内の足原市民センターと霧丘中学校に、「清張文庫」という「松本清張」さんに特化したスペースを作りました。素晴らしい顕彰動です。まち協も応援いたします。きょうの「しのぶ会」を新しい出発点として、「清張」さんのことがもっと広がることを願い、その中で足原校区も成長できればと願っています。
一昨年は地域の方々の思い出話を聞き、昨年は千鳥の絵を披露していただきました。今年は2つの思い出話ということですが、昭和の大作家の知られざる一面を、地域の皆さんの手で丁寧に掘り起こされておられ、また、毎年多くの方がご臨席され、本当に地域に根差した活動だなと感じます。毎回お話しいただく方々も、一所懸命に思い出を辿っていただいているご様子が伝わる、温かい会だと思っております。どうか、10回、20回と末永く、この活動が続きますことをお祈り申し上げます。
足原校区は、清張さんが、デビュー作の「西郷札」を執筆し、「或る『小倉日記』伝」で芥川
賞を受賞された頃に住まわれていた場所で、いわば<作家生活の原点>となった場所です。45歳で東京へ移り、のちの国民的作家となる第一歩を踏み出した<ゆかりの地>です。
「清張さんの道を歩く会」の皆様は、清張さんの残した足跡を次の世代に継承し、地域の誇りにしようと、積極的な活動に取り組んでおり、着実に成果を上げられました。心から敬意を表すものです。是非、末永く活動を続けられていくことを願っています。
贈呈・提供の作品、献花、献本は下記のとおりです。
ご協力ありがとうございました。
●制作・贈呈=<デザイナー>厚地 正幸様(小倉北区) ➡幾何学的模様のデザインで、清張さんに良く似ています。表記事一覧表に掲載しています。
●献花=「清張さんの道を歩く会」 ➡清張さんが好きだった花<白い野菊の花>を、「くろずみ清張公園」で増やすために<鉢で栽培中の白い野菊から>一輪を献花しました
現在、「歩く会」の主要活動は<記録型紙芝居>の上演です。「菊が丘『語ろう会』」制作の
名作「足立山とオリオン座 清張さんの歩いた道」(上・下巻)を中心に、「清張さんの道を歩く会『くろずみ一座』」の11人の女性たちで活動しています。
同紙芝居は清張さんの誕生から上京するまでの44年間をまとめた記録型紙芝居で、「せいちょう」さんが、まだ「きよはる」さんと、呼ばれていた頃の生活の一部を紹介しています。
地元出身の「松本清張」さんの<人となり><輝かしい功績>を語り継ぐことで、清張作品がもっと多く読まれ、「松本清張さん」を知らない人たちや若い世代の人たちが、清張作品に接するきっかけになればと期待して活動しています。
併せて<記録型紙芝居><伝承・歴史型紙芝居>計10数編の、地域に関連した紙芝居も上演することで、地域づくり・地域の歴史と文化の伝承に繋がる活動も目指しています。
▼小林記者は清張さんから取材の承諾を得て上京。
▼杉並の清張さんの自宅で5時間、ぶっ続けに話を聞きました。
▼取材は一度だけ。あとは資料を調べ、時には清張さんに電話で確かめて書きました。
▼清張さんに初めてお会いした感じは、怖そうだったが非常にやさしい方、びっくりするくらい 穏やかに淡々と話され、質問には何でも答えてくださった。
▼連載23回を、毎回見せてチェックしてもらうことは出来ない・・・と思っていると、清張さん から「見なくてよい」「自由に書いてください」と云われたので気が楽になりました。
▼連載の2~3年前、清張さんは、祖母の遺骨をあずけていた小倉のお寺に遺骨をいただき に来られました。「『回想紀行』とでも云ったらいいか」と言って、記憶をたどりながら憑かれ たように、小倉の町をずっと歩き廻りました。黒原(=黒住町)にも行ったと思います。
▼そこで、ふるさと小倉に帰った時を、「回想紀行」として連載第1回目をスタートしました。
▼23回の連載は可成り大きな記事なので必死になって書きました。
▼原稿は、ほとんど見せることなく連載できました。終わって挨拶に行ったが文句を言われる こともなく、ほっとしました。
▼最終回の写真は、清張さんから「大分に行くので来ないか」と誘われて駆け付けた時、清張 さんの配慮で、記事用に撮らせていただきました。記事掲載の数日前でした。
▼連載第16回目の≪黒原(黒住町)の自宅で原稿を書いている写真≫『清張 芥川賞受賞 の頃 黒原の自宅で』は、清張さんに借りて掲載したもの。
▼「西郷札」、「或る『小倉日記』伝」を書き、作家としてスタートした時期が、黒原(黒住町)で 暮らした時期。まもなく上京後、休む間もなく書かれている。
▼清張さんは、書いた分量はとてつもなく多く、ずっと第一線で活躍された。そういう方を 北九州の町は生んだ。とくに黒住の人たちにとって、自分たちの住んでいる、すぐそばに、 偉大な方がいたということは、本当に誇らしいことと思います。
▼黒住の人たちが、このような形で清張さんを大切になさっていることは、ありがたいことで、
私も嬉しく思います。
▼清張さんにお会いして話を聞くと、大作家と云われる方だが、穏やかで、上からものを言う
様なこともなく、23回連載させていただいたことは、長い新聞記者生活で一番の思い出に
残る人と取材になりました。
▼清張作品は残っていくので、何度も読んで頂ければよいと思っています。