『清張さんの道を歩く会』会報【No.10】
≪第5回「足立山麓の松本清張さんを『しのぶ会』」開催≫

 令和元年8月4日、第5回「足立山麓の松本清張さんを『しのぶ会』」を開催できました。今年も、猛暑にもかかわらず、多数ご参加いただき誠に有り難うございました。おかげさまで「しのぶ会」は、第5回目を迎えることができました。これもひとえに皆様方の、ご支援のお蔭と感謝しております。
 今年は松本清張さん生誕110年の年です。上京したのは44歳の時なので、上京後、66年経過した年月の方がはるかに長くなりました。当時の小倉での清張さんや家族の方の面影や生活ぶりは、ごく僅かな人達の記憶の中だけになっています。忘却の彼方へ消え去るような状況の中ですが、今年は3つの証言で企画することができました。
 今回も、「しのぶ会」の様子は、マスコミ3社=KBCテレビ、朝日新聞、小倉タイムス=に報道していただきました。有り難うございました。

◎◎◎ 「しのぶ会」進行と内容 ◎◎◎


 8月4日、9時30分開場。会に先立ち、松本清張記念館ご提供の「清張 芥川賞受賞の頃黒原の自宅で」の写真の前で皆さんが献花後、「歩く会」世話人の「江副 伸久」の司会で「しのぶ会」が始まりました。参加人数は75名。主催側1名、来賓の方2名の挨拶の要旨を紹介します。

★共同開催「足原校区・まちづくり協議会」会長・中村 義雄

 「まちづくり協議会」は校区をより良くしていこうとする団体です。今年から共同開催した理由は二つ。一つは、松本清張さんが足原校区にいらっしゃったということです。今、いろんな町が自分たちの町を良くしようと活動しています。
▼ただ、できないのは過去の事実を今から作れないということです。松本清張先生がいた事実は、どこの町が真似ようとしても出来ないことです。この大事なことを、きちんと大切にしていこうというのが一つ。
▼もう一つは、事業をする時の町の取り組み姿勢には、<何もしない町><役員やリーダーから発信されたことは行動する町><住民発信で行動する町>と3段階あります。
▼松本清張先生の顕彰活動は、黒住の皆さん中心の活動、住民発信で行動する一番良い姿です。具体的には、「黒住公園」に「清張」先生の名前をつけた「くろずみ清張公園」に名称変更してもらうため、賛同署名を集め北九州市に要望しました。また、校区内の足原市民センターと霧丘中学校に、「清張文庫」という「松本清張」さんに特化したスペースを作りました。素晴らしい顕彰動です。まち協も応援いたします。きょうの「しのぶ会」を新しい出発点として、「清張」さんのことがもっと広がることを願い、その中で足原校区も成長できればと願っています。

★北区役所・総務企画課・企画広報担当課長・藤島 研二郎様
 「しのぶ会」の<ご挨拶>に加え、「しのぶ会」ご臨席の<御礼と激励のメッセージ>もいただきましたので、要旨をまとめました。

  一昨年は地域の方々の思い出話を聞き、昨年は千鳥の絵を披露していただきました。今年は2つの思い出話ということですが、昭和の大作家の知られざる一面を、地域の皆さんの手で丁寧に掘り起こされておられ、また、毎年多くの方がご臨席され、本当に地域に根差した活動だなと感じます。毎回お話しいただく方々も、一所懸命に思い出を辿っていただいているご様子が伝わる、温かい会だと思っております。どうか、10回、20回と末永く、この活動が続きますことをお祈り申し上げます。

★北九州市立・松本清張記念館・事務局長・在間 順一様

 足原校区は、清張さんが、デビュー作の「西郷札」を執筆し、「或る『小倉日記』伝」で芥川 賞を受賞された頃に住まわれていた場所で、いわば<作家生活の原点>となった場所です。45歳で東京へ移り、のちの国民的作家となる第一歩を踏み出した<ゆかりの地>です。
「清張さんの道を歩く会」の皆様は、清張さんの残した足跡を次の世代に継承し、地域の誇りにしようと、積極的な活動に取り組んでおり、着実に成果を上げられました。心から敬意を表すものです。是非、末永く活動を続けられていくことを願っています。

💎 清張さん関連の作品等 💎

贈呈・提供の作品、献花、献本は下記のとおりです。
ご協力ありがとうございました。

 

❶イラスト『清張さんの似顔絵』

●制作・贈呈=<デザイナー>厚地 正幸様(小倉北区) ➡幾何学的模様のデザインで、清張さんに良く似ています。表記事一覧表に掲載しています。

❷葉書絵『解体された”清張旧居”の水彩画』
●提供=「磯野 恒美」様(小倉北区) ➡清張さんたちが住んでいた頃の、懐かしい一戸建の家屋です。磯野さんが 小学校の時、黒住町の同型の家屋を描いたことがあったので、家屋の一部を 記憶をもとに描きました。小さな中庭に面した家屋には濡れ縁があり、ガラス戸で部屋が遮断されています。鎧板の壁に歳月を感じました。
❸献花・白い野菊の花

●献花=「清張さんの道を歩く会」 ➡清張さんが好きだった花<白い野菊の花>を、「くろずみ清張公園」で増やすために<鉢で栽培中の白い野菊から>一輪を献花しました

❹献本

●当日の献本=47冊 令和元年8月4日現在累計=1,305冊

 

💗 <ふるさと紙芝居>上演 💗

 

 現在、「歩く会」の主要活動は<記録型紙芝居>の上演です。「菊が丘『語ろう会』」制作の 名作「足立山とオリオン座 清張さんの歩いた道」(上・下巻)を中心に、「清張さんの道を歩く会『くろずみ一座』」の11人の女性たちで活動しています。
 同紙芝居は清張さんの誕生から上京するまでの44年間をまとめた記録型紙芝居で、「せいちょう」さんが、まだ「きよはる」さんと、呼ばれていた頃の生活の一部を紹介しています。
 地元出身の「松本清張」さんの<人となり><輝かしい功績>を語り継ぐことで、清張作品がもっと多く読まれ、「松本清張さん」を知らない人たちや若い世代の人たちが、清張作品に接するきっかけになればと期待して活動しています。
 併せて<記録型紙芝居><伝承・歴史型紙芝居>計10数編の、地域に関連した紙芝居も上演することで、地域づくり・地域の歴史と文化の伝承に繋がる活動も目指しています。

思い出を語る❶ 
朗読「点と線、父幸一郎と松本清張さんとの思い出」

 当日上演の紙芝居に登場した「清張」さんの英語の家庭教師、「竹野 幸一郎」さんの二男で、神奈川県川崎市にお住いの「竹野 憲司」様が、「しのぶ会」で披露してくださいと、<メッセージ>「点と線、父幸一郎と清張さんとの思い出」と<掌編小説>「愛の香り ラストラヴ」を寄稿してくださいました。
 「竹野 憲司」様は、第12回(2018年度)「北九州文学協会文学賞・小説部門」「隔離病棟にて」で《大賞》受賞。2019年3月、受賞式で来倉、「くろずみ清張公園」にも来園されました。 メッセージは、ごく少ない思い出を結び付け、まさに<点と線>の手法で書かれており、「英語道」については新しい解釈も紹介しています。


【ご参考❶】 ➡➡➡ 【3本の道】=<英語道><通勤道><散歩道>=とは?
*地域調べサークル「菊が丘『語ろう会』」(小倉北区下富野)が現地調査し、清張さんが 足立山麓で、行き先ごとに≪よく歩いた道≫を「3本の道」と名付け、発表しました。
*「しのぶ会」の当日に配付した、小倉北区役所発行の文学マップ「清張さんの歩いた3本 の道」にも記載されています。
*詳しくは、インターネット上で、「清張さんの歩いた道としのぶ会」と検索すると、菊が丘「語ろう会」会員「久門 守」氏の論文を閲覧できます。 *「3本の道」は「清張さんの道を歩く会」設立のきっかけになりました。

【ご参考❷】 ➡➡➡ 【掌編(しょうへん)小説】とは?
*非常に短い小説のこと。
*長編小説>中編小説>短編小説>短い短編小説=ショート・ショート>掌編小説の順。
*小説家「中河与一」が「掌(てのひら)に書いた小説」と表現したので、「掌編小説」と呼ぶ ようになったそうです。 メッセージ、掌編小説とも、会報【No.11】に掲載していますので、是非、お読みください。

�思い出を語る❷  
講演「小倉時代の松本清張」

 昭和56年3月から4月にかけて、朝日新聞・西部本社・夕刊・第2社会面に、23回にわたり連載された「小倉時代の松本清張」を執筆した「小林 慎也」元記者(84歳)が、「小倉時代の松本清張」の演題で、清張さんに直接取材したときの様子や感想などを中心に講演されました。以下、録音記録から抜粋しました。

▼小林記者は清張さんから取材の承諾を得て上京。

▼杉並の清張さんの自宅で5時間、ぶっ続けに話を聞きました。

▼取材は一度だけ。あとは資料を調べ、時には清張さんに電話で確かめて書きました。

▼清張さんに初めてお会いした感じは、怖そうだったが非常にやさしい方、びっくりするくらい 穏やかに淡々と話され、質問には何でも答えてくださった。

▼連載23回を、毎回見せてチェックしてもらうことは出来ない・・・と思っていると、清張さん から「見なくてよい」「自由に書いてください」と云われたので気が楽になりました。

▼連載の2~3年前、清張さんは、祖母の遺骨をあずけていた小倉のお寺に遺骨をいただき に来られました。「『回想紀行』とでも云ったらいいか」と言って、記憶をたどりながら憑かれ たように、小倉の町をずっと歩き廻りました。黒原(=黒住町)にも行ったと思います。

▼そこで、ふるさと小倉に帰った時を、「回想紀行」として連載第1回目をスタートしました。

▼23回の連載は可成り大きな記事なので必死になって書きました。

▼原稿は、ほとんど見せることなく連載できました。終わって挨拶に行ったが文句を言われる こともなく、ほっとしました。

▼最終回の写真は、清張さんから「大分に行くので来ないか」と誘われて駆け付けた時、清張 さんの配慮で、記事用に撮らせていただきました。記事掲載の数日前でした。

▼連載第16回目の≪黒原(黒住町)の自宅で原稿を書いている写真≫『清張 芥川賞受賞 の頃 黒原の自宅で』は、清張さんに借りて掲載したもの。

▼「西郷札」、「或る『小倉日記』伝」を書き、作家としてスタートした時期が、黒原(黒住町)で 暮らした時期。まもなく上京後、休む間もなく書かれている。

▼清張さんは、書いた分量はとてつもなく多く、ずっと第一線で活躍された。そういう方を 北九州の町は生んだ。とくに黒住の人たちにとって、自分たちの住んでいる、すぐそばに、 偉大な方がいたということは、本当に誇らしいことと思います。

▼黒住の人たちが、このような形で清張さんを大切になさっていることは、ありがたいことで、 私も嬉しく思います。
▼清張さんにお会いして話を聞くと、大作家と云われる方だが、穏やかで、上からものを言う 様なこともなく、23回連載させていただいたことは、長い新聞記者生活で一番の思い出に 残る人と取材になりました。
▼清張作品は残っていくので、何度も読んで頂ければよいと思っています。


(令和元年8月20日 小松康希)