■大谷翔平2世?今年の小倉の注目右腕・吉川 晴朝
1907(明治40)年に福岡県立小倉中学として創立され、翌年には野球部も創部されていた。夏の大会には第3回大会となった1917(大正6)年から参加、19年には全国舞台初出場を果たし、長岡中(現長岡)、鳥取中(現鳥取西)と下して準決勝では長野師範(現信州大教育学部)に0対1で敗退する。
しかし、その後はなかなか全国の舞台に姿を現すことがなかった。
やがて戦後初の大会となった46年夏、2度目の出場となったが初戦敗退。これと言った実績を残せなかったが、その翌年から小倉の進撃が始まる。のちに早稲田大→八幡製鉄(新日本製鉄八幡)などでも活躍することになる福島一雄投手が入学してきていたことが大きかった。主将は、その後に早稲田大の監督も務める宮崎康之三塁手だった。この時、福島投手は中学2年生だった。
47年は春夏連続出場を果たすのだが、春は京都一商(西京商を経て、現西京)、岐阜商、城東中(現高知大手前)を下して決勝進出。決勝では徳島商に敗れるものの初の準優勝。
夏はさらに快進撃で神戸一中(現神戸)、桐生中(現桐生)、志度商(現志度)、成田と下して決勝も岐阜商に6対3で勝利して初優勝。
多くのメンバーがそのまま残って翌年も春夏連続出場。春は初戦で京都一商に前年の雪辱をされて延長で敗れたものの、新制高校最初の大会となった夏は、図らずも第30回記念大会となった。
決勝も桐蔭に1対0と完封勝ちで前後試合を無失点という怪記録も残しての連続優勝となった。そして、この年に制定された大会歌「栄冠は君に輝く」に称えられての優勝となった。
こうして、学制改革をまたいでの連続優勝は、まさに歴史の証でもある。そして、小倉のグラウンドにはそのことを示すかのように誇り高く、2つの石碑が並んでいて、そこには「栄冠は“我”に輝く」と刻まれている。
そして、福島投手は翌年に高校3年生となって、最後の年を迎えることとなるのだが、49年も春夏連続出場を果たして、春は準決勝まで進出して優勝する芦屋に敗れる。
夏は、学制改革の移行期ということもあって各地で校名などが変更されるという事態もあり、小倉もこの年だけは小倉北として出場。初戦は慶應義塾、2回戦は長崎東を下したが、準々決勝では倉敷工に延長10回サヨナラで敗退する。
既に力尽きてマウンドを降りていた福島投手は、サヨナラ負けの後、試合終了の挨拶に並ぶ前に自分が3年間投げ続けた甲子園のマウンドの砂をひと握り、ユニフォームの尻ポケットに忍び込ませた。やがて、このことがメディアを通じて広く伝えられた。そして、これが敗者が甲子園の砂をその戦いの証として持って帰る風習につながったと伝えられている。
中等学校3年からベンチ入りしていた福島投手は、春夏合わせて都合7度甲子園(46年は西宮)に出場していることになる。中等学校5年の春の後、夏は高校2年となったことで翌年も出場可能となったのだ。学制移行期ならではのことで、この記録は永遠に破られないであろう。
以降も55年の春夏出場をはじめ、56年夏、57年春65年、66年春と出場する。ただし、甲子園での勝ち星は66年春の1回戦のみだった。その後は78年春に春夏通算21回目の出場を果たして、初戦で帝京に3対0で快勝。2回戦で箕島に敗退して以降、甲子園からも遠ざかっている。
平成に入って以降は、低迷期も否めなかった。それでも小倉復活を期待する声は地元では根強い。そして、それに応えるべく健闘し、2017(平成29)年秋季県大会ではベスト4に進出。3度目の21世紀枠の県推薦校にもなったが、九州地区の推薦校とはならず朗報を逃している。
それでも、18年春は県大会優勝でしかも、第100回記念大会で初めて福岡からも南北2枠が設けられて、千載一遇の復活のチャンスかと思われた。ところが、期待された夏の北福岡大会は準決勝で飯塚に屈した。
序盤の2回に大量失点したのが響いて反撃しきれなかった。それでも、小倉健在ぶりは強くアピールすることにはなった。
小倉の「栄冠に輝く」歴史の復活を望んでいる地元のファンは多い。